滋賀県の東部、湖東地方の各地から江戸時代より排出した商人を近江商人といいます。
天秤棒一本の行商から始めて財をなし、千両の富を得てもなお天秤棒を肩に行商に出たことから近江の千両天秤と呼ぶようになりました。
近江商人の中でも、日野地方出身の商人を日野商人と呼び、他の近江商人と比べ出店数においては群を抜いていました。
しかし大店といわれるものが少なく、千両もたまれば新しい店を出すといわれるくらい小型店の拡張が多く、このことから日野の千両店という名称が生まれました。
商いの道
近江商人の行商は郷里や上方の産物を地方へ持ち下り、また地方の産物を仕入れて上方で売りさばくという方法をとりました。これが近江商人ののこぎり商法です。
行商の往復とともに商品の販売と仕入れを行うという無駄のない商業活動でした。そして行商によって一定の販路と資本をつくると、さらに持ち下り地の中心に出店を開いていきました。
出店の分布が各地に広がると出店相互間の商品を需給と価格差に応じて回転が行われ、いわゆる産物廻しの方法がとられました。
この形態こそいまの総合商社のはじまりといえます。
萬病感応丸
日野商人の特徴の一つには日野で造られた漢方医薬の販売があり、これが大きな利益を上げる一つになりました。
正徳四年(1714)に正野玄三が造り出した萬病感応丸は日野を代表する薬となって全国に広められました。
これらの薬の製造する業者も200軒を越え、日野は製薬の町になりました。商品の荷が軽く、持ち歩きに便利でしかも利益が大きい。このため萬病感応丸を取り扱う日野商人の出店も必然的に増えていきました。
各所の出店では萬病感応丸という看板を通りの目に付きやすい所に揚げて商っていました。
日野大当番仲間
江戸時代になると日野商人と呼ばれる商人は相当の多人数となりました。このため商人相互間の扶助と幕府の保護を得るため、日野大当番仲間を組織しました。
この大当番の最大の特色は、幕府の庇護のもとに売掛金の徴収が滞まった場合にはその領主に訴えて幕府の威光によって徴収できる権限を持ったことです。
また、大当番仲間で東海道や中山道の各宿場に現在の指定旅館ともいえる日野商人定宿を設けて旅の便宜を図りました。関東への行き帰りに利用され、明和7年(1770)には181軒もの定宿数になりました。
倹約・勤勉・先祖崇敬…
「近江泥棒に伊勢乞食」と言われ、近江商人はがめつい商法の代表のような印象ですが、実は天秤棒による行商の精神を忘れず、勤勉・倹約・正直・堅実を信条に富をなしたのです。
なかでも江戸時代中期の日野の豪商といわれた中井源左衛門が法然上人の一枚起請文をならい、子孫のために金持商人一枚起請文を書き残しました。
「倹約と勤勉と先祖崇敬こそが商いを志す者の道である」と説き、近江商人の精神を総合的にまとめたものとして称されています。
また近江商人は余財を社会に還元し多くの公共施設などを寄付したのです。